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日本演劇の興行の歴史

先月から始まったこのコーナー。2回目となる今回は、日本における演劇興行の歴史からを探ってみたい。先人たちの興行運営方法は、今後のアートマネジメントのあり方を模索する上で、大きなヒントになるに違いない。


■江戸時代までの演劇興行

太古の人々の呪術的な原始芸能として生まれた日本の演劇は、その後、アジア近隣の影響を受けながら、江戸時代の頃には、雅楽・能・狂言・文楽・歌舞伎など、実に多彩な演劇文化を形成していった。

当時、庶民にとって最大の娯楽は芝居であり、芝居小屋には夜ごと人が詰めかけるほどの人気だった。しかし、そんな盛況ぶりに反して、芝居は遊郭と並んで「二大悪所」と呼ばれ、社会的地位が極めて低かった。千両役者も、所詮は「河原乞食」と呼ばれ、演劇に関わるものへの社会の目は非常に冷たいものだったという。

そして、そんな風潮からか、芝居の興行には“ばくち打ち”が関わり、どこの芝居小屋も、顔役の子分が取り仕切るといった状態であった。それはまさにヤクザの稼業で あり、まともなビジネスからはあまりにもかけ離れたものだった。


■近代的興行を形成した松竹の「演劇改良」

こうした状況の中で、「演劇改良」を掲げて近代的興行を取り入れた人物が、明治の 中期に現れる。現在の松竹株式会社の創始者、白井松次郎氏、大谷竹次郎氏の2人の兄弟である。

彼らは日本の演劇を西欧のあり方に近づけようと、古い習わしを捨てた、「新しい演劇」を目指した。

観客本位の演劇環境をつくるためには、「日本中の興行を、全て自らの手に掌握する必要がある」と考え、1902年、松竹(まつたけ)合名会社を発足。彼らは歌舞伎興行の上演時間を改正するなど、江戸以来の古い習わしを次々と破っていった。

そして、興行を1ヶ月単位にして、資本蓄積を行なうなど、近代企業家的な興行方法を取り入れた。また、俳優に与える給金を興行ごとに支払うことで、俳優たちの生活を安定させた。1912年には、松竹傘下の俳優は1840名にも及び、年間を通しての興行を可能にした。“松竹芝居王国”の誕生である。

松竹の繁栄を支えてきたもの。それは、人気俳優の魅力で観客を引きつける「スター・システム」である。これにより、常に観客動員は見込みやすくものとなり、興行の安定化に繋がっていたのだ。

しかし、このスター・システムは、一部の人気スターに依存するため、若手の育成が難しいという欠点を持つ。事実、松竹はこのスター・システムにより、やがて保守的な経営体質に陥ることとなった。


■東宝の「大劇場主義」と「団体客重視」

そんな松竹に対し、演劇をもっと大衆に開かれたものにしようと現れたのが、現在の東宝株式会社の創業者・小林正三氏である。

小林氏は、これまで歌舞伎や芝居が、高い入場料や古い習わしにより、庶民の手には届かないものとなっていることに、大きな矛盾と不満を抱いていた。「演劇を良質のエンターテイメントとして、出来るだけ低料金で、大勢に提供したい」。それが彼の夢であった。

しかし、コストを下げるためには、より沢山の人を一度に観劇させる必要がある。そ こで、夢を実現化させる具体策として、「大劇場主義」を掲げた。だが、客席数が増 えれば、それだけの集客がさらに必要となる。「個人客よりも団体客をいかに確保するか?」。この問題が、次第に重視されるようになっていった。

現在、日本の商業演劇では、団体客が全体の5割〜7割を占めると言われている。それは、東宝が進めた大劇場主義による“団体客重視”の傾向を、今なお業界全 体がそっくり受け継いでいることを物語っている。

しかし、団体客重視の姿勢は、安定した収入が得られる反面で、客層が固定され、新規顧客の獲得に繋がらない。そして、業界全体が閉塞してゆく。大劇場主義が、今、悪循環を与える大きな要因となっているのかもしれない。


■劇団四季による「新規客の開拓」

松竹、東宝といった大手商業演劇ブランドの傾向に違和感を感じ、1980年代に独自の興行システムを開拓していったのが、「劇団四季」である。

四季は50名以上の営業担当者を抱え、団体客獲得に一応の力は注いでいるものの、そのシェアは全体のわずか3割でしかない。その代わりに、今では常識となっている「ファンクラブ」を組織したり、「シアター・アドバイザー」なる委託販売員を活用することで、新しい顧客の開拓を行なっている。

シアター・アドバイザーは、歩合制でチケットを販売する人々で、その多くが女性で ある。彼女たちはそれを生業としているわけではない。芝居好きな人が友達を誘う延長で、チケットを販売しているのだ。こうした活動は一見、草の根的に見えるが、人によっては年間で3000枚の販売実績をあげるなど、その存在は決して軽視できない。

また、業界に先立ち、テレビなどのメディアで大々的なプロモーションを展開したの も、新規客獲得に大きく貢献した。

こうした貪欲なまでの四季のやり方を、当時、業界内からは“やり過ぎ”と批判する風潮もあったようだ。しかし、四季の活動によって、それまで演劇に目を向けなかった人々が、家族と一緒に劇場に足を運ぶようになった。その功績は、大きい。


■劇団四季の「商業主義」への転換

今では、大人も子どもも楽しめる巨大ミュージカル劇団として知られる劇団四季も、旗揚げ当初はストレートプレイを上演する学生劇団だったことは意外と知られていない。

劇団四季は、1953年に慶應大学仏文科と東京大学仏文科の10人の学生により旗揚げ。当時はフランスの劇作家に傾倒する、いわゆる「非商業的」な匂いを漂わせる新劇の劇団だったようだ。

経済的には、設立当初からかなり苦しい状況を強いられていたようで、稽古には夜の幼稚園やお寺を借りるなどしていたらしい。

創立から5年後には、団員の半分が結婚を機に辞めてゆくなど、劇団活動そのものが窮地に追いやられる。そんな中、それまでの従来型の劇団経営を真似ていた四季は、劇団員が生活できるよう経営の合理化を追求するようになる。まずは芝居で生計を立てられる劇団を目指すようになったのだ。  

1960年に有限会社化した劇団四季は、1967年、さらに組織変更して「四季株式会社」を誕生させ、現在に至っている。

「今の日本の演劇にとって大事なことは、皆がまず舞台で食っていけるという実績をあげることです。そして、日本の劇場にもう一度、客が来るという状況をつくる。そうしてはじめていろんな芝居が生まれてくるんだと思います」

劇団四季の代表で、演出家の浅利慶太氏は、同劇団ホームページのインタビューの中で今もなおそう語っている。


■キーワードは「演劇の大衆化」と「これじゃ食えない」?

松竹、東宝、四季。

それぞれの“巨頭”は、先人たちへの反発から始まって、時代に合わせたよりよい興行スタイルを開拓してきた。この3巨頭が実践してきたシステムは、今も演劇興行に大きな影響を及ぼしている。

3巨頭は、やり方や意見でぶつかりながらも、「演劇をもっと大衆の娯楽に!」の思いで一致している。社会的に低い位置に見られることの多い演劇の分野で、それに携わる人々がいかにして生計を立てるか。この問題に真正面から取り組むことが、新たな演劇興行の形を生み出す大きな原動力となっている。

3巨頭は、今なお健在である。この偉大なる先達を乗り越えるような新しい潮流を生 み出すこと。そんな新たなエネルギーが、今の演劇界には求められているはずだ。



(文・G)2002/12/16