under


 
 
ボランティアと文化ホールの大切なカンケイ−1−
〜能登演劇堂の場合〜


ボランティアというと、「自己犠牲」「無償」というイメージがついてまわります。 しかし、ただ「何かをやってあげるだけ」ではないボランティアとは?と聞かれても すぐには答えられないのではないでしょうか?今回から数回に分けて、ボランティア から計り知れない可能性を見出した文化ホールの活動をご紹介します。第1回目の今 日は、石川県中島町にある「能登演劇堂」です。

5年前の1997年、中島町にある演劇専用ホール「能登演劇堂」で、無名塾が1ヶ 月30ステージ、2万人動員のロングラン公演を打ちました。この公演の運営母体 は、町内で工場経営をしている瀬口さんが会長を務める「中島町演劇堂振興協会」。 主要なメンバーが、婦人会や農協、医師会等、市民団体のリーダーでなりたっている 官民一体の振興協会です。実際に公演の準備からチケットの販売、当日のさまざまな 仕事まで、各団体から出されたボランティアの方々で行われていきました。

では、何故中島町だったのでしょうか?

中島町は、牡蠣の養殖では日本海沿岸で最大の漁獲量を誇る町でしたが、40年ほど前から過疎化が進み、小学校や中学校も次々と廃校になっていきました。そんな中、 町の工場を経営する瀬口さんが、演劇を志す若者をアルバイトとして雇うようになりました。これが、仲代達也氏率いる無名塾の若手俳優たちだったのです。

数年間、雇用主とアルバイトの関係が続きました。そして、アルバイトを世話してくれている瀬口さんへのお礼として、仲代氏が家族旅行をかねて能登を訪れたとき、豊かな自然と人情に触れた仲代氏の口から、「ここで稽古が出来ないかな」という言葉が出てきたそうです。当時、中島町は過疎対策、町おこしが最大の課題でした。そこで、瀬口さんは無名塾に夏の合宿の話を持ちかけたのです。

85年、ついに合宿が始まりました。当初は、あくまでも「稽古に来ている」という認識の強かった仲代氏は、稽古の見学を断っていたそうです。しかし、強い要望もあり、6回目の合宿から「公開練習」が始まりました。公開練習初日、300人もの町人が集まりました。はじめはイベントのつもりで集まった町民は、そこで初めて演劇を「目撃」することになるのです。

華やかな表舞台からは想像もつかないほどに張り詰めた緊張感。真剣な眼差しで演技を見つめる演出家。みるみる鍛え上げられていく本物の役者たち。町民たちは、演劇 に対する認識を新たにしていきました。

そして88年からは、希望者を募ってバスで行く「東京観劇ツアー」が始まりました。この時、町人たちは、普段から演劇に触れていた自分たちと、表からしか観たことのなかった東京の人々との差を、初めて実感したのです。「もしかしたら、自分たちは凄いことをしているのかもしれない」と。その驚きが原動力となり、仲代氏から出されていた「演劇ホールを」という提案と国の過疎地域活性化資金が結び付いて、収容人数651人、建設費用27億円をかけた演劇専用ホールの建設が決まったのです。

しかし、建設計画が軌道に乗ってきた91年、問題が起こりました。町長選の折に、このホールの建設が争点となったのです。国の補助金があるので、町からは2億円の 出資ですむのですが、それが演劇専用である必要があるのか、民間劇団にそこまでする必要があるのか、さまざまな議論が起こりました。結局、現職町長が敗れ、演劇堂 の建設も再考されることになってしまったのです。

無名塾の合宿が始まってから6年。ここで計画がなくなってしまっては、今まで積み 上げてきたものが無駄になる。瀬口さんたちは、仲代氏と町長の会談の席を設け、こ の事業の意義を懸命に伝えました。「行政の担当は年とともに代わるが、町民は変わらない。」「文化を担うのは町人なのだから、行政の変節で方針が変わっては意味が ない。」仲代氏は、今後無名塾の初日は必ず中島町でやることを約束しました。

そして、95年10月。ついに演劇専用ホール「能登演劇堂」が新設されたのです。 同時に発足した演劇堂振興協会の会長には瀬口さんが選任され、官民一体の組織とな りました。そして97年、中島町での奇跡を奇跡のままにしてはいけない、と始まったのが無名塾による1ヶ月のロングランだったのです。

現在でも演劇堂には約2千人近い友の会会員がいます。年会費1万8千円で、振興協 会が主催する4回の公演が鑑賞できます。勿論、無名塾の公演も含まれています。

文化は、人に与えられて出てくるものではありません。自らで動き、体験し、初めて 創造されていくのです。そのきっかけとして、ボランティアに参加することは、とて も有効なことなのではないでしょうか。



(文・K)2002/05/20