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演劇創世記4 ローマの演劇がたどった残酷の道
最近は世界中で明るく楽しいコメディがもてはやされていますが、紀元前の演劇創世記の頃は、今とはまったく違った演劇が上演されていました。 今回は、過激で残酷なローマ演劇の生い立ちについて考察してみましょう。 ● 古代ローマは、カゲキなのがお好き? 優れた悲劇を次々と生み出した古代ギリシャは、アレキサンダー大王率いる隣国・マケドニアに攻めこまれ植民地になります。 当時、マケドニアは地中海を取り囲む一大国家となりますが、アレキサンダーの死後は後継者に恵まれず、その後、ギリシャを含む地中海沿岸の国々は、しばらくの間、古代ローマ(後のローマ帝国)により統治されるのでした。 古代ローマ時代(前27〜後395)の演劇は、ほとんどギリシャ演劇の模倣でした。コロスを継承したスタイルはもちろん、ストーリーも、ギリシャ悲劇を翻訳したり脚色したりしたものばかり。ただし、演出だけは、より観客を興奮させるものへと様変わりしていきました。 コロス達は、舞台手前の「オルケストラ」と呼ばれる場所ではなく、舞台の上に登場し、生きた群集として劇を盛り上げました。 やがて、舞台が「劇場」から「円形闘技場」に移るようになってからは、ますます過激に進化するようになります。戦争や決闘、火事などのシーンも実際にその場で行われ、人が殺されるような場面には、役者の代わりに死刑囚が舞台に立っていたそうです……! 当時のローマ人たちの過激さを象徴する文化として挙げられるのが、「剣闘士の戦い」です。円形闘技場では、剣闘士によるの“本当の戦い”が市民の娯楽としておこなわれるようになったのです。人々の「過激さ」を求める欲望は高まるばかりだったのです。 そもそも剣闘士の戦いのはじまりは、お葬式のときに故人への追悼の意をこめて行われたものだと言われています。しかし、その戦い自体が見世物として求められるようになってからは、追悼はただの口実となり、当時の権力者の力も手伝って、その凄惨さは次第にエスカレートしていきます。 コロッセウムができたときには落成記念として、毎日戦いが続き、その日数、なんと100日。3000人もの剣闘士が戦い、9000頭の野獣が死亡したそうです。 その後も、剣闘士の一騎打ちのほか、複数の剣闘士たちによる戦闘、人間対野獣、または、野獣同士の戦いなどが行われました。野獣の種類も実に様々で、ライオン、ヒョウ、クマといった猛獣から、ウシ、ゾウ、サイ、キリンといった草食獣まで登場しました。実際、ウシ同士やゾウ対サイなどの戦いも行われ、興奮させた動物達を、トゲ付きの棒や火で追いやって無理やり戦わせていたそうです。 公開処刑なども行われていたコロッセウムでは、その建設以来、推定で70万人もの人が殺されたそうです。 ● ローマ演劇のその後 これだけを見ていると、「ローマの人々の残虐さ」しかみえてきませんよね。でも、全ての人々がこれらの見世物を喜んでいたわけではありません。この見世物に反対する人々もいました。 その中心となったのは、ローマ帝国で流行った哲学、「ストア派」の人々。 この哲学は、「心の平安を求める」というものだったのです。 後のフランス古典劇に影響を与えた悲劇作家セネカや、奴隷出身の哲学者エピクテトス、ローマ帝国で最も有名な王、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝なども、ストア派でした。 「あなたが誰かに傷つけられたとき、その相手を恨むのは間違いだ。相手はあなたを傷つけただけで、あなたを怒らせているのは、あなた自身の怒りの心である。だから、それに振り回されていはいけない。自分の心をコントロールしなさい」という考え方で、心を静めようとしていたのです。 民衆達の人気獲得を狙う権力者たちによる見世物舞台が次々と無料で行われ、観客には無料でパンがもらえるという「パンとサーカス(見世物)」と揶揄される民衆の享楽生活。その一方で、贅沢を尽くしつつも、心の平安を求めるインテリな哲学……。 この2つが同時に存在する中で、演劇という文化は人間の「負」の部分を吐き出すための道具になってしまったのでしょうか。その後、キリスト教会が力を持ち、キリスト教は国教になります。すると、批判性と娯楽性を持つ演劇は、卑俗で猥雑なものとして疎まれ、強い弾圧を受けることになります。 俳優とその親族は教会から破門され、演劇公演自体も禁止。その後、500年以上もの間、演劇は日の目をみることが無くなったのです。しかし、その間も、旅芸人たちは細々と活動を行っているのでした。 参考サイト ローマの遺跡 http://organization.web.waseda.ac.jp/ 世界史講義録 http://www.geocities.jp/timeway/kougi-16.html |
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(文・E)2004/9/20
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