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ニッポン演劇むかしばなし vol.4 〜散楽〜

日本の演劇文化のおおもとをたどれば、中国などの大陸からの文化と日本の文化とが密接にかかわり、融合し、発展を遂げてきたことがわかります。今回は、能や狂言など日本の伝統文化のもとになった、「散楽(さんがく)」について探ってみましょう。

●能の祖先は猥雑?!

散楽は、雅楽や伎楽に少し遅れて、8世紀の奈良時代に大陸から輸入されたと言われています。もっと以前から伝わっていた可能性もあるようですが、文献に現れるのは、735年に聖武天皇が唐人による芸を見たという記述が初めてのようです。

「天下泰平(てんかたいへい)」などを祈祷する為に寺社の祭礼で演じられることが多く、朝廷にあつく保護されていました。雅楽寮には散楽戸という部署も置かれ、東大寺大仏の開眼供養の時には、伎楽などと一緒に奉納されるほどでした。

もともと、「散楽」というのは、チベット語の「サンロー」という言葉が語源で、「新しい遊戯」という意味を持ちます。起源は、古代ギリシャや古代ローマ、アレクサンドリア、西アジア、中央アジアなどの文化が、何世紀にもわたって中国に伝わり、発展してきたものだそうです。

内容としては、滑稽な物まねや軽業(かるわざ)、曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなどの非常に娯楽的要素の強い芸能だったようです。これらの芸に歌や舞を伴った演劇の一種でした。

例えば、猿などの動物の物まね芸であったり、火を口から吹いたり、刀を飲み込むなどの、今で言うジャグリングのようなものであったり、時には下ネタを交えた曲芸が平安期の朝廷で演じられたりもしていたそうです。

しかし、その猥雑さと庶民的過ぎる娯楽性ゆえに、朝廷の保護をとかれ、ついには宮廷に入ることを禁じられてしまうようになりました。“能や狂言の祖としての散楽”と考えていただけに、何だか驚きですよね。

●その後の散楽の歩み

朝廷の保護を離れ、衰退の一途をたどるのかと思いきや、これが逆に発展のきっかけとなりました。朝廷の保護を離れることで、寺社だけでなく街頭でもより自由に演じられるようになり、多くの庶民の目に触れるようになったのです。

京都を訪れていた庶民の口から噂が地方に広がり、全国各地を巡回する集団も生まれました。そして、徐々に日本古来の芸能と交じり合いながら、新しい文化としてどんどんと大きくなっていったのです。

特に、物まね芸を中心により大道芸的な要素が濃くなった「猿楽(散楽が訛ったもの)」と、散楽と農村で田植えの時期に行われていた芸能が融合した「田楽」とは、後に融合し、能・狂言となってゆきました。

また、曲芸的な要素の一部が「歌舞伎」へ、滑稽な要素の強い芸は「演芸」へ、人形を使った芸は「人形浄瑠璃」へ、奇術は「手妻」へと発展してゆきました。

こうやってみると、散楽の持つ力に脱帽です。雅楽のように朝廷に脈々と保護され、洗練されてゆくのも素晴らしいのですが、散楽に関しては、保護を解かれ、庶民の文化を吸収したことが、よりプラスに働いたのですね。

次回は、この散楽がどのようにして能や狂言に発展していったのかを探ってゆきます。どうぞお楽しみに!


参考ウェブサイト
日本文化いろは事典
>> http://iroha-japan.net/iroha/C04_vaudeville/03_sangaku.html
金剛能楽堂
>> http://www.kongou-net.com/temptation.html
ウィキペディア
>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E6%A5%BD



(文・O)2005/5/16