under


 
 
ニッポン演劇むかしばなし vol.5 〜能の大成前夜〜

奈良時代に大陸から伝わってきた散楽。一時は朝廷の保護を受けますが、その庶民的な内容から朝廷の保護をはずれ、寺社や町の中で自由に演じられるようになることで、より大衆の文化を吸収し発展してゆきました。そしてそれが、「能」へと変化してゆきます。

今回は、散楽がどのようにして能へと発展して行ったのか、その道のりを探ってみましょう。

●やっぱり芸能の力は偉大だ!

散楽は、朝廷の保護を離れたのち様々な芸能に分かれてゆきましたが、平安時代になると、特に物まねを中心とした芸能を「猿楽」と呼ぶようになりました。そして、興福寺などの大きなお寺に所属するようになります。

大きなお寺では地球上の全て物を守るための大法要をするのですが、その中で特に人々の目に触れる「外相」という所作があります。これは、誰でもお客様を招く時に家に明かりを灯すように、神様や仏様をこの世に迎えるための明かりを灯す役目で、神聖な「みかまぎ」という薪を焚き、その明かりのもとでさまざまな所作を演じると言うものです。

もともとは、お坊さんがその役割をしていたのですが、物まねを得意とする猿楽師たちに任せるようになっていったそうです。そして、みかまぎの明かりのもとで猿楽が演じられるようになり、これが今で言う「薪能(たきぎのう)」となるのです。

ヨーロッパで演劇が禁止されてからも、キリストの教えを分かりやすく庶民に説くために教会で演劇が行われていたように、神様や仏様の教えを分かりやすく庶民に伝え、神聖な儀式を滞りなく成功させるためには、やはり芸能を専門とする人のほうが力を発揮したのでしょうね。

やはり、芸能の力は偉大です!

●能の大成前夜

その後、猿楽から特に演劇的なものを中心に演じる「猿楽の能」へと変化してゆきます。また、散楽から枝分かれをし、田植えなどの行事と結びついていった「田楽」も、東大寺や延暦寺、興福寺などの大きなお寺で余興に演じられていた「延年(えんねん)」という芸能を取り入れ、「田楽の能」へと変化してゆきました。この2つの芸能は、同時代にその勢力を争うことになります。

猿楽の能は、いかにその役柄に化けるかと言う物まねを主軸とし、地方で大変人気がありました。それに対し、田楽の能は幽玄(ゆうげん)を中心とし、とても象徴的で高度な芸を持っていました。

時代は平安。京都を中心とした貴族社会となると、どちらが優勢かはもうお分かりですよね。田楽の能が京都の貴族たちに大人気で、猿楽の能楽師たちは「京都に行って田楽の能に勝ちたい!」と思うようになります。

そして、ここで登場するのが「能の生みの親」とも言える、観阿弥・世阿弥親子です。彼らは、猿楽の能出身の能楽師。京都での田楽の能に取って代わり、「能」を大成させるために、大きな改革に打って出ます。一体、どんなことをしたのでしょうか?それはまた、次回のお話…。

どうぞお楽しみに!


(文・O)2005/6/20