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ニッポンの演劇の過去・未来 〜新劇の歴史 前編〜
新劇は、歌舞伎や新派劇の商業主義的な演劇を批判し、ヨーロッパ的な芸術志向の演劇を目指して始まりました。新劇の始まりには、2つの大きな団体がありました。 1つは、坪内逍遥や島村抱に代表される“文芸協会”です。 早稲田大学の島村抱月の発案で1906年に結成され、大隈重信を会頭、坪内逍遥を顧問として、文学、美術、演劇などの革新を目指しました。しかし、実際は演劇が中心にあったようです。 そしてもう1つは、小山内薫、市川左団次に代表される“自由劇場”です。歌舞伎俳優だった左団次は、ヨーロッパに視察に出かけた際に、新しい演出方法や興行方法をみて刺激を受け、歌舞伎の革新を胸に帰国しました。そして、作家の小山内と意気投合し、翻訳劇を中心に公演を行う自由劇場を立ち上げたのです。 彼らは、専属の俳優や劇場を持たない会員制の組織でした。しかし、ヨーロッパ的な芸術志向の演劇を取り入れるための努力を惜しむことなく、文芸協会とともに、知識階級に新鮮な刺激を与え、新劇運動の最前線を走ることになったのです。 ●築地小劇場の建設 さまざまな知識人が海外の演劇を学んでいる中、1923年、関東大震災が起こりました。この地震と演劇に何の関係があるの?!と思われる方も多いと思いますが、実は、非常に大きな関係があるのです。 この地震により、関東の大部分が大きな被害にあいました。その為、震災復興のために建設規制が一時的に緩められたのです。この事から、ドイツに演劇研究のために留学していた土方与志は仮説のバラック劇場の建設を思いついたのです。土方は急遽帰国し、この構想を自由劇場の小山内に相談。すぐに劇場建設と劇団の育成に取り掛かったというわけです。 翌1924年に完成した劇場は、それは見事なものでした。100坪弱の平屋の劇場で、キャパシティーは400〜500席。天井は高く、可動式の舞台を備えていました。当時の日本では珍しい、ドーム型に湾曲した壁を舞台背面に設置、ホリゾント幕も備えていました。そして、電気を用いた照明室も備えていたのですが、実はこれ、世界初のものだったのだそうです。 この劇場で、チェーホフやゴーリキーなどの海外演劇の紹介を中心とする運営を行い、俳優の育成にも力を入れてゆきました。開場の際に、小山内が日本の戯曲を批判する発言をしてしまったので、文壇からの反発を買ってしまったのですが、後々には坪内逍遥、武者小路実篤らの創作劇の上演も行い、日本の新劇運動の中心地として大きな役割を果たすようになってゆきました。 しかし、時代は第二次世界大戦へと向かい、日本の演劇界にも大きく暗い影を落とすこととなってゆきます。このお話は、また次回にお届けいたしましょう――――。 参考サイト:ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/新劇 |
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(文・O)2006/4/17
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