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ニッポンの演劇の過去・未来 〜新劇の歴史 後編〜
日本の現代的な演劇の歴史の始まりが、築地小劇場だったと言ってもいいのではないでしょうか。関東大震災の後の1924年に立てられた築地小劇場は、世界初の電気を用いた照明室を備え、可動式の舞台も持ち、それは見事な劇場でした。この劇場を中心に、海外の芸術性の高い演劇を次々に上演し、劇場と同じ名前の劇団では日本での俳優の育成にも力を注いでゆきました。 設立当初は、日本の戯曲を批判していたものの、次第に坪内逍遥や武者小路実篤らの創作劇の上演も行われるようになり、まさに現代演劇の中心地となっていったのです。 ●築地小劇場の分裂と新劇運動の終焉 1924年に小山内薫と土方与志を中心に設立された築地小劇場でしたが、1928年の小山内が急逝してからは、土方を排除しようという動きが盛んになってゆきました。 当時、土方はかつて演劇研究でドイツに留学していたこともあって、第一次世界大戦後から盛んになっていたプロレタリア文化運動に参加していました。プロレタリアとは、賃金労働者階級、無産者階級をさす言葉です。プロレタリア文化運動は、知識人や芸術家が社会運動に参加するようになり、次第にマルクス主義を色濃く反映させた活動へと転換してゆきました。 結局、土方は1929年に築地小劇場を脱退、新築地小劇場を旗揚げしました。ここで彼は、社会主義的リアリズムに基づいた演劇を目指し、プロレタリア演劇運動を推進してゆきます。前衛座や左翼劇場との結束を固めてゆき、徐々に左翼的な傾向を強めてゆきました。小林多喜二の「蟹工船」を「北緯五十度以北」という題名で上演するなど、その活動は活発に続いてゆきます。 しかし、世界は徐々に第二次世界大戦へと動いてゆきます。日本ではファシズムが台頭し、治安維持法が厳しく施行されるようになってゆきました。特別高等警察(特高)が誕生し、社会主義・共産主義など反体制思想の活動は徹底的に弾圧されてゆくようになります。俗に言う「赤狩り」というものです。特高の活動は非常に恐ろしく、たまたま持っていた本の背表紙が赤いというだけでも逮捕されたそうです。 もちろん、土方らのプロレタリア演劇活動もその対象となってゆきました。小林多喜二が特高につかまり、築地警察署で拷問の末虐殺されたと言うのは有名な話です。新築地小劇場の劇団員もほとんどが検挙され、解散状態となります。土方はソ連やヨーロッパに亡命しましたが、1941年に帰国すると投獄され、終戦まで牢獄で過ごすこととなりました。 一方、築地小劇場の残留組も、1930年には解散し、劇団新東京となりました。演劇活動は続けていたのですが、それほど多くの資料は残っていないようです。 また劇場自体も、幾度かの改修をへて演劇の発信地としての役割を果たしていましたが、第二次世界大戦の激化に伴って統制が厳しくなり、政府の指示で国民新劇場と改名をさせられ、1945年の東京大空襲によって消失してしまいました。こうして、日本の新劇の歴史に、1つのピリオドが打たれたのでした。 参考サイト:ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/新劇 |
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(文・O)2006/5/15
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