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バージョン・アップ! 故郷の子どもたちとふたたび〜遥川スミエさん
「私は、みんなを置いて辞めていってしまうんじゃないんだよ。もっと勉強して、ここに戻ってきたら、また一緒にやろうね。」 「日本のアンデルセン/口演童話の父」と呼ばれた久留島武彦に因み、毎年、全国童話祭を開いていることで知られる大分県玖珠町。その町の小学校教員・遥川スミエ(はるかわ・すみえ)さんは、今春3月末、離任式もそこそこに身仕度を整え、東京に向かいました。とある演劇研究所に入るためです。 と言っても、実のところ宿もなければ職も決めてありません。とりあえず、研究所の入所式に間に合うようにと上京し、住まいと仕事を探すことと併行して、週3日の研究所通いが、早速始まったのです。 大学4年まで、バレーボールに打ち込み、キャプテンまで務めていながら、内気であまり自信のもてない自分の存在価値を探す遥川さん。岡山で過ごす大学生活で、ひょいと演劇部をのぞいてみたことがきっかけでした。これからの道が見えてきたのです。 バレーと併行して始めた演劇。3年の時、初めて脚本を書き、みずからも出演した舞台が近隣の小学校によばれます。「おもしろかった。よかったよ」と喜ばれ、次々にほかの学校からも招かれます。彼女のなかに、卒業後は演劇を生かして、という気持ちが湧き起こってきました。 帰郷して小学校に勤めることになりました。教室やクラブで子どもたちのいきいきとする姿や劇を見た親たちの声を、見たり聞いたりするにつけ、演劇への情熱がふたたび、しかも前にもまして強くなっている自分に気がつくのでした。周囲の反対を押し切り、1年で学校をやめてピッコロ演劇研究所(兵庫県)に入る決心をします。基礎から学び直そうというわけです。 ところが、あろうことかお母さんが50代の若さで癌に苦しんでいたのです。演劇の道に進みたい、でも母のそばにいてあげたい。悩みながらも、1年間のピッコロ生活が終わると結局故郷に戻り小学校の教員になります。仕事と看病の毎日。くたびれた心身を癒し、奮い立たせてくれたのは、やはり演劇でした。 町で催される「町民劇場」の舞台に立ったのです。それをお母さんが見に来てくれました。そして、娘の晴れ姿を見届けたかのように、まもなく他界します。 母親を見送ってしまうと、山間の小さな町の引っ込み思案の子どもたちにも、表現する楽しさと演劇のおもしろさを感じてほしいと、学校の仕事とは別に「演劇教室」を開くことにします。 幼児から中学生まで。協力的な親たち。そして公演の日、町のお客さんたちの大きな拍手をもらって、笑顔が広がりました。客席には、遥川さんのおばあちゃんの姿もあります。そのおばあさんも、ほどなく、はりつめた糸が切れるように天寿を全うしました。 そして今春の退職、上京、研究所通い、となるわけです。大学を卒業して8年。今は亡きおかあさんは、実は地域の「子ども劇場」運動に情熱を傾けていました。遺志を継ぎ、「母の生き方の証しを私がしているのだと思います」と言う遥川さんの演劇と教育に懸ける情熱は、演劇と教育に架ける橋を作っているように見えます。 来年3月、研究所の卒業公演があります。それが終わったら、待っていてくれる故郷の子どもたちと、もっとすばらしい劇づくりをまた一緒にしてみたい。でも、このままプロの道に進みたいという気持ちも心のどこかに……。揺れながら、今日もレッスンと仕事に時間を振り分けて、休む暇もない東京生活を送っています。 |
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(文・日本演劇教育連盟・市橋久生)2005/10/3
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