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演劇から学校教育へ、三十而立〜河本一也さん〜

河本一也(かわもと・かずや)さんは、一昨年4月、33歳にして東京の小学校教員になりました。今年も、11月には5年生の子どもたちと学芸会の劇づくりに取り組み、演劇の楽しさ、とくに集団で創る舞台(集団劇)のおもしろさを、子どもたちに感じさせてやれたのではないかと思っています。

集団劇のおもしろさ。それは、河本さんが20代に所属し、舞台に立っていたミュージカル劇団「ふるさとキャラバン」で体験し身につけた感覚です。教員になった今、子どもたちにそれを知ってもらいたい、味わってほしいと考え、演劇活動に力を入れているのです。

河本さんの10代後半からのほぼ15年間は、演劇三昧の生活でした。

それは高校に入学して出会った落語研究会から始まりました。老人ホームなど学校の外にも積極的に出かけ、「東芝銀座セブン」を借りて演じたこともあります。部費を稼ぐために職員室に出前したことも……。創作落語や一人コントのようなことがおもしろくなってきました。

演技の基礎を教えられ演劇をしっかり学んだのは、高校2年の時、毎週日曜に通うタレント養成所ででした。社会を知る“窓口”でもあったと、当時を振り返ります。そこで認められて、CMやドラマなどテレビに出演するチャンスにも恵まれます。

大学は迷わず演劇学科を選びます。しかし、大学の授業に出るよりは、ミュージカルをやりたいと思っていました。演劇のなかでも、集団でやれる舞台が好きだからです。柴田恭平に憧れ、東京キッドブラザーズに入りたいと思っていた頃、たまたま見た「劇団ふるさときゃらばん」に心が動きます。これだ!「舞台を見た人が明日もがんばろうと思ってくれるような」ミュージカル。迷わず、入団オーディションを受けて、合格したのです。

大学4年の時、母親の死。お母さんっ子だった河本さんは気持ちが沈み、生活に張りを失ってしまっていたのですが、それでもなんとか卒論は『笠智衆』を書き上げ、卒業と同時にふるさときゃらばんの団員になり演劇が生活になったのです。もちろん舞台に立ちます。『男のロマン、女のフマン』が最初の舞台でした。

しかし、俳優としてよりもっと学んだものは、24歳の頃、長野県に入った「制作」の仕事ででした。10人程でチームを組み、そのリーダーとして、妥協の許されない緻密なワークが求められたのです。河本さんは、「それまでの一人よがり」に気づき、「一所懸命の大切さを今更のように」思ったと述懐します。

そんな劇団を3年半で辞めたのは、ハードな活動で体を壊してしまったからです。それでも、心身に馴染んだ演劇は離れていきません。アルバイトをしながら、演劇集団円や木冬社の研究生になって、自分なりに演劇を追求したのです。が、いかんせん、安定した収入に乏しく、若いとはいえ生活は困難の底にありました。「夢やぶれ、南の島にでも行ってひっそりと暮らすのもいいか」と思うほどでした。もっとも、河本さんにはそれでもどこか、困難を逆に生きる“ばね”にしてしまうような明るさやエネルギーを感じます。

失意の日、あるとき偶然目にした「通信教育で取れる教員免許」の文句。もともと子どもが好き。ならば教員もいいか。それが今の仕事の入り口でした。

教育の困難が言われる今日、河本さんのような生きざまに触れることは、子どもたちが「人間っておもしろい」「生きていることってすばらしい」と感じ、人間や社会を複眼で見る助けになると思うのです……。


(文・日本演劇教育連盟・市橋久生)2005/12/5