under

 
 
演劇に没頭したスタニスラフスキーの生涯

楽器を演奏するために、まず「ドレミ〜」という基礎から学ぶように、外国語を話すために、まず文法から学ぶように、演技をするためにも、演技の基礎や文法を学ぶ必要があります。しかし、日本にはまだまだその方法が確立されていません。

では、欧米ではどんなカリキュラムで演技を勉強しているのでしょうか。このコラムでは、演技の基礎となるメソッドを研究してゆきます。

●スタニスラフスキーってどんな人?

演技のメソッドと聞いて一番に思いつくのは、やはりスタニスラフスキー・システムではないでしょうか。このシステムを確立したスタニスラフスキーさんとは、一体どんな人物だったのでしょう。彼のシステムを研究する前に、彼の歴史をちょっと覗いてみましょう。

彼は、1863年、ロシアの裕福な織物工場主の家庭に生まれました。母はペテルブルグで名を上げたフランスの女優で、家族全員が演劇に熱中していたそうです。

14歳の時、父親がモスクワ郊外の別荘を劇場に改造し、兄弟で作品を創って公演を行います。彼らの公演活動は好評で、新聞にも取り上げられるほどだったのですが、スタニスラフスキーは自分の演技に疑問を持ち始めました。それまで観ていたプロの俳優と違い、なんと力の入った下手な演技なのだ!と衝撃を受けたというのです。

彼は、この頃から自分の演技の問題点を分析し、ノートに記し始め、75歳でその生涯を終えるまで続けたそうです。もう、この時点で彼の演技への情熱と才能が開花されていたのですね。脱帽です。

その後、演技力を高めるためにたくさんのプロの師事し、体操・歌・踊り・乗馬・フェンシングなど、ありとあらゆるものを学びます。そして、21歳の時に演劇学校へも入学します。しかし、ここの授業が古い芸の真似事しかさせてくれないという理由で、わずか2週間で退学をしてしまいます。

彼は、演技にも“文法”があるべきだと考え、24歳でセミプロの劇団を立ち上げます。そして、古い演技術を削ぎ落とし、現実に即した実生活の観察が基礎となる演技を追及してゆきました。ここで彼は、俳優としてだけでなく演出家としても頭角を現し始めます。

34歳で、ウラジーミル・ネミローヴィチと共にプロの劇団「モスクワ芸術座」を設立し、その後数々の作品と話題を世間に提供し続けてゆきます。彼は、俳優としても演出家としても最高の水準に達してゆきました。

●システムの誕生

スタニスラフスキーは、43歳の時、人間関係のストレスなのか、演技し続けてきた疲れからなのか、俳優としての創造的感情が消えてしまったことに気付きます。外側の演技術は完璧なのに、そこに感情が伴っていないことに衝撃を受け、この感情がなければ観客との交流が出来ないことに気付きました。

彼は、この内面的な演技の管理の方法や、感情を呼び起こす方法を、“文法”に立ち返って考え、14歳の頃から書き溜めていたノートを基に分析を始めました。これが、現在も消えることなく、全ての演技のお手本とされている「スタニスラフスキー・システム」の始まりです。

しかし、彼の考えがすぐに世間に受け入れられたわけではありませんでした。一応、モスクワ芸術座の稽古方法として取り入れられはしたものの、俳優の才能は天性のものだと信じる時代ですし、劇団員たちも、新しいものよりも安定を求めるようになっていたからです。また、ウラジーミルとの亀裂が大きくなり始めていたこともあり、長い間孤立することになります。

そこで彼は、新たにスタジオを開設し、若い次世代の俳優たちに指導をしながら、さらなる探求を始めます。その中には、チェーホフやボレフラフスキーなどがいて、その後の演劇界に大きな影響を及ぼすことになります。

一方、モスクワ芸術座は過去の遺物として極左陣営の攻撃にさらされ、1922年から2年をかけてパリやアメリカでの巡業公演を余儀なくされました。しかし、その巡業の中で、スタニスラフスキーの方法論が各地で大きな反響を呼び、孤立していたはずの芸術座の総監督を任されるとともに、モスクワ芸術座の功績も評価されるようになっていったのです。

そして、1938年で他界するまで探求し、書き足したり、修正したりしながら確立されていったのが、現在に受け継がれている「スタニスラフスキー・システム」となったのです。

次回から数回に分けて、彼が生涯をかけて取り組んだシステムについて研究してみましょう。どうぞお楽しみに!


参考文献:演技ー創造の実際ー ジーン・ベネディー著 晩成書房出版
参考サイト:TRAINER LABO http://trainer-labo.com/index.html


(文・O)2006/1/16