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メソッドってどんなの?!
 
 
アメリカでのメソッド演技の誕生

先月まで、スタニスラフスキー・システムの概要を見てきました。このシステムは、1923年〜1926年にアメリカに亡命してたスタニスラフスキーの弟子リチャード・ボレスラフスキーとマリア・ウスペンスカヤによってアメリカ実験室劇場で伝えられ、アメリカの演劇界に大きな影響を与えました。

当時のアメリカ演劇は、スター・システムを採用し、娯楽性の高い大仰な演技が中心だったようです。そこに、スタニスラフスキーの「人間を“深みのあるもの”と見なし、同時に俳優を“用意には理解できない上演の意味の担い手を生む複雑で心理的な存在”とみる」ことを求めたのですから、ある意味真逆な考え方に出会い、そうとう驚いたのではないでしょうか。

●メソッド演技の誕生

アメリカ実験室劇場で始まったボレスラフスキーとウスペンスカヤの演技クラスに参加していた学生の中に、リー・ストラスバーグがいました。彼は、同じクラスの学生だったハロルド・クラークマンと、シアター・ギルドで出会ったチェリル・クロフォード達とともに「グループ・シアター」を結成しました。グループは新しいアメリカ戯曲を上演することに力を注ぐ俳優集団となり、その練習方法や俳優の演技テクニックとしてスタニスラフスキー・システムを用いたのでした。

当時のアメリカでは当たり前だったスター・システムに頼るのではなく、アンサンブルによる表現に着目。霊感、つまり、俳優が演技をする時に偶然降りてくる直感に頼るのではなく、常に特定の情緒や行動を呼び起こすように訓練を重ねる。紋切り型や大げさな芝居をするのではなく、気取らず自然に舞台に立ち、リアルに上演をする。

今から考えれば、特に新しいことではないように思えますが、当時としては今迄の演技システムとは全く違った理論で、後にステラ・アドラーは「グループ・シアターはアメリカ演劇を変えてしまうような演技の水準の確立に貢献した」と語っているほどです。

そして、上演を重ねてゆく中で、メソッド演技を確立していったのです。

●スタニスラフスキーの子どもたち

シアター・グループの活動は1931年〜1940年までの9年間に及びました。この活動の中で、メソッド演技指導者たちの理論に相違が生まれてきました。

心理学的なこと強調するリー・ストラスバーグ、社会学的なことを強調するステラ・アドラー、行為を強調するサンフォード・マイズナーの3名によって、その相違が大きくなってゆきました。彼らは、各々の理論を強調し、対立することもあったようです。

アドラーはストラスバーグと絶縁し「ステラ・アドラー芸術学校」を設立、マイズナーはグループの目指す方向に疑問を感じ、「ネイバーフッド・プレイハウス演劇学校」に加わり1935年には校長になりました。

また、ストラスバーグは「アクターズ・スタジオ」の芸術監督に就任し、後に最高責任者となるなど、別々の道を歩き始めます。そして、各々の理論を研ぎ澄ますと同時に多くの俳優の指導に専念してゆきました。

彼らは、我こそがスタニスラフスキーの後継者だと語るように、強調する部分こそ違いますが、俳優という仕事に対する本質的な考え方に関してはほぼ一致しています。要は、スタニスラフスキーが示した俳優の仕事のどの切り口から“役”に取り組むか、という違いなのでしょう。

スタニスラフスキーがそうであったように、より洗練された演技技術を生み出し、優れた俳優を育てることに彼らは生涯をそそぎました。「システムに完成形はない、時代と共に変化してゆくものだ。どうかこれから先もたゆまず進化させて欲しい」と願っていたスタニスラフスキーは、天国できっと喜んでいることでしょうね。

さて次回からは、各々のメソッドについて触れてゆきます。どうぞお楽しみに!


参考文献:二十世紀俳優トレーニング
       (アリソン・ホッジ編著 佐藤正紀ほか訳 而立書房)



(文・O)2006/11/13