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実演家と教師・連携が生んだ総合的な学習
     〜東京・足立区 弘道小学校 後編


弘道小学校では、教員と演劇人が事前にも途中にも事後にも直接話し合いを持って、総合的な学習の時間を進めていた。この授業のコーディネート役である芸団協の米屋さんは「先生と一緒に授業をつくりたい」、劇団青年座の俳優・藤井さんも「先生との共同授業という考えで臨む」、そして担任の西さんは「演劇的手法がツールとして使えるか」を検証したいと、3者の考えをすりあわせていた。

3人は、授業を始める前、8月に地元の古老を訪ね、地域の歴史や風土、子どもの頃の暮らしや遊びについていろいろ話を聞いている。これは実際に授業を行う上で大変貴重であった。学校に見学や授業に訪れる場合、たとえ短時間でも事前に学区域を散策しておくことは意義がある。さらに藤井さんは、社会科の教科書や地域に関する本を読むなど、下調べを怠らなかった。

また、子どもたちはみんながみんな演劇の授業を待ち焦がれているわけではない。やりたくない、やらされたくないと思っている子もいるかもしれない。そのことに想いをやる謙虚さ、想像力は絶対不可欠である。結果として、そういう子どももいつのまにか積極的に参加し、晴れやかな表情に変わっている……。それが見られれば成功である。

そのためにも、表現する雰囲気を教室に、子どもたちに、日常的につくっておくことが教師に担わされた役目である。西さんが、4月から身体表現のさまざまなエクササイズで、子どもたちの身体と心を耕していたのも、授業の成果をあげたに違いない。内気な子も臆せず参加できたり、言葉が苦手な子が言葉に頼らない表現でいきいきとしたり、というのも、それが下地になっていたことが想像できる。

一連の授業を通して、藤井さんは、いろいろな分野で演劇・表現の授業が活かされるのではないか、「実感が心に火を点ける」ことがあり、子どもたちの学習や創造の意欲、自信、生きていく勇気などを触発する可能性を言う。

米屋さんは、実演家が学校に入る意義について、「学校教育に風を吹かせる」ことができるのではないかと希望を語る。そして、「先生と一緒につくりたい」と再三述べていられたが、学校や教師の駄目さ加減を言い募って胸を張るのではないその姿勢がうれしい。したがって教師がその場でどんな役割を果たしたらよいか、ぜひそれも話し合っておきたい。

西さんは、こういう授業の「次は教師の役割・仕事かな」と言う。ゲスト・ティーチャーに任せきりにせず、それを生かせるかどうかは教師自身に関わっているというのである。

1時間の授業についても、またこれからの学校教育のありようとしても、この言葉が生きると思う。演劇人による子どもたちへの直接の指導は当分まだまだ盛んになっていくと思われるが、近い将来、たくさんの事例をていねいに総括してみる時がくるだろう。その時、子どもたちへの直接の指導はやはり「教師の役割・教師の仕事」、と位置づけられるのではないかという気もする。

そのためにも、教師自身が演劇人に学ぶ体験、また教員になろうという学生には演劇体験や表現のセンスが必要だと思っている。


(文・日本演劇教育連盟・市橋久生)2006/12/4