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〜声と心の解放〜
最近、小中学生の間で「しみじみ」という言葉を理解できない子どもが増えているという。辞書的な意味の理解は出来ても、実感をもって理解することが出来ないというのだ。あくせくと日々を過ごし、穏やかな時間の流れを感じることが出来なくなる大人は多いが、それが子ども社会にまで広まっているというのは、忌むべきことかもしれない。 そんな中、演劇ワークショップと同様に注目を集めているのが「群読」である。群読とは、詩や物語を大勢で朗読するものだが、ユニークなのは、1つの文章を一斉に朗読するのではなく、文章を一つ一つ各々に振り分けて、台詞のように繋げて構成してゆくことだ。 群読の最大の魅力は、「他とのつながりを意識すること」が出来ることである。一つの詩や物語を読み上げるのに、誰か一人でも欠けていては完成しない。全員の息を合わせ、その詩の持つ意味を伝えようとすることで、おのずと連帯感や協調性が生まれてくる。 また、詩や物語の情景を大勢で疑似体験できることも、魅力の一つだ。どんなに息を合わせて、“上手に”読み上げたとしても、そこに心が伴っていなければ、単なる音読に過ぎず、読む方も聞く方もつまらない。ここで大切になるのは、言葉や文章に心を注入するために、群読するメンバー全員で、詩の情景のことを話し合ったり、皆で1つの絵を書いてみたり、エチュード(即興芝居)をしてみたりすること。演劇を創作する時とほぼ同じ作業であるのが面白い。 最初は下手でもいいから、“個人”ではなく“集団”で、1つのものを共有し、心を込めて創り上げること。これによって、人と人との繋がりを深め、想像力を磨くことが出来るのである。 東京都・江戸川区立平井西小学校では、学年ごとの群読発表会を行なった。 そもそもこの学校では、5年間にわたって国語の読みを深める研究を重ねており、各学年の子供たちが選んだ教材を互いに読み合い、解釈や展開を深めるというのが最初の目的であった。 まずは教師同士で朗読をしあい、相互評価をしていく中で、各自が抱いたイメージや解釈に幅が生まれ、教師一人一人の表現力が豊かになっていった。この、「協同して表現し合う喜び」を子どもたちにも広めていきたいと始められたのが、各学年による群読発表会なのである。 各教室で朗読や1分間スピーチ、劇、合唱などを取り入れながら練習し、その集大成として、群読発表会が存在する。このプロセスの中で、1人1人が自分という軸を強め、他人との心地よいつながりや間合いを覚え、表現することの喜びを実感してゆくのだという。 形に見える成果ばかりを求めると、気持ちは焦り、呼吸が浅くなり、本来の感情を希薄にすることがある。だが、優れた表現とは、ゆったりとした精神の中で、人の話に耳を傾け、それを受け止め、そこから感じたことを言葉や身体で明らかにすることからはじまる。もちろん、そうして生まれてくる“表現”も、受けとめる相手がいなければ成立しない。そんな繰り返しを確実に積み上げてゆくことが、表現者としての自信と表現力の育成につながってゆく。 すなわち、優れた表現力は、心と時間のゆとりがなくては育まれない。物事をしみじみと感じてとらえることが出来なければ、表現そのものが希薄になってしまう可能性もあるのだ。 はて? 今話題の“ゆとりの学習”とは、なんであろうか?週休二日制や、薄くなった教科書だけがゆとりの学習であるとすれば、長い時間をかけて群読に力を注いできた平井西小学校の学習とは、一体なんなのだろう?少なくとも、平井西の子供たちの表現に対する自信と余裕は、他の学校の子供たちに、決して引けをとらないはずであるが。 「しみじみ」や「ゆとり」という言葉の本来の意味が忘れさられゆく現状に大きな危機感を感じるのは、果たして私だけであろうか? |
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(文・O)2002.05.07
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