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永久保存版シアターエデュケーション 〜演劇教育ヒストリーvol.1〜 2001年7月に創刊した演劇タイムズ。おかげさまで一周年を迎えました。演劇と教育、社会を結びつけるメールマガジンとして、現在ではおよそ400名の方々にご愛読いただいています。 今回は創刊一周年記念として、「演劇と教育」をはじめ、多くの演劇教育関連書籍を発行する晩成書房代表の水野久(みずの ひさし)さんにご協力いただき、演劇と教育の歴史を紐解いてゆきます。まさに永久保存版![以下、文中敬称略] 演劇には長い歴史がある―――。 教育にも長い歴史がある―――。 では、「演劇」と「教育」はいつ頃から結びついてきたのだろうか? ▼100年ぶりの「対話」 今年から小・中学校の教科書が新しくなった。その新しくなった中学校の国語教科書の一つに、平田オリザさんの「対話」の教材がのっている。劇のスタイルで書かれた教材で、他人との出会いとコミュニケーションを考えさせるものになっている。これは、これまでの戯曲教材というのとはちょっと違った教育と劇の新しい出会い方の一つだろう。 何でここから話すかというと、劇と教育の一番古い出会いの時にも、やっぱり「対話」という言葉が使われたのだ。頃は明治の後期、世間で子どものための「お伽芝居」などが流行ったことも刺激になって、学校でも、子どもたちが劇を演じる活動が始まった。学芸会というものが始まったのも、明治末(1910年頃)だという。そして劇が上演されるのだが、文部省からは「子どもが芝居をするなど好ましくない」と牽制球。そこで学芸会のプログラムには、劇と書かずに「対話」と書かれたのだ。それから約100年。時がめぐって、また劇が「対話」ということで学校に入ったという話。 ▼沙翁(シェイクスピア)と演劇教育 そうやって、明治期に始まった子どもの劇にエールを送るのが、かの坪内逍遥。子どもの劇を「児童劇」と名づけ、さかんにその効用を説いたのだ。逍遥といえば『小説心髄』やシェイクスピアの翻訳が知られているが、日本の演劇教育の源流でもあったのだ。 ▼学校劇のはじまりは成城 現在につながる大きな出来事は、大正時代の1919年(大正8)。広島高等師範学校附属小学校の教師だった小原国芳が学芸会で劇『天の岩戸』を上演。「学校劇」という呼び名の始まりがここだといわれている。小原はその年、東京の成城小学校に移る。この時期、後に学校劇作家として第一人者となる斎田喬らも成城学園に着任。以後、成城小学校の学校劇は注目を集める。文部省はやっぱり気に入らなかったらしい。1924年(大正13)には文部次官通牒を出し、学校劇を抑え込もうとしている。昭和に入ると小原は玉川学園を創設(1929年)。成城・玉川の学校劇・演劇教育の流れは現在まで続いており、その影響は大きい。 ▼公立学校でも学校劇 その成城小学校の学校劇の影響を受け、昭和の初めには主に公立小学校の教師たちによる「学校劇研究会」ができる。1929年(昭和4)のことだ。演劇教育の先輩たちは「GK」と略称でよぶ。そのGKが「日本学校劇連盟」へと発展するのが、今をさかのぼること65年前の1937年(昭和12)。その後間もなく第2次世界大戦が勃発し、一時、活動休止を余儀なくされるが、1945年(昭和20)の敗戦とともに学校劇も復活。49年には「日本学校劇連盟」が再建された。この流れが、現在も演劇教育を根づかせようと活動を続けている日本演劇教育連盟に連なっている。 ▼社会と演劇と演劇教育 戦後の社会になって、それまでの「軍国主義・統制・天皇神話的」な社会から、「民主主義・自由・科学的」な社会への大転換が起こった。教育の世界も当然、大転換の時期だった。新しい社会のなかで、何をどう教えるのか。戦前の教育の反省をふまえ、多くの教師が模索していた。さまざまな教育研究運動が起きていた。 一方、戦前・戦中は左翼的として弾圧された新劇団も、活発に動き始めていた。アマチュアの演劇活動も盛んだった。職場の労働組合で、村の青年団で、大学で、青年たちによって演劇が上演された。これはちょっと今では想像しにくいほどだ。(国鉄の労働組合にも劇団があったんだ!) そんな戦後社会の雰囲気のなかで、演劇教育も新しいスタートを切った。先ほどの1949年の日本学校劇連盟(現在の日本演劇教育連盟)の再建、48年の児童劇作家協会の結成(成城児童劇の中心作家・斎田喬が委員長/現在の社団法人 日本児童演劇協会)など、現在につながる演劇教育の研究・実践団体がうまれたのはそういう時期なのだ。 ▼学校劇から演劇教育へ 今も、毎夏に開催されている「全国演劇教育研究集会(以後、全劇研)」の第1回大会が、200人を集めて東京で開催されたのも1949年のこと。しかし、この頃は大会の名前も「全国学校劇研究協議会」であり、まだ、教育全体に結びついた演劇教育を考えるというよりは、学芸会や文化祭などの「学校劇」をどう創造的なものにしていくかという問題意識のほうが一般的だったといえるだろう。 そして54年には、現在の「演劇と教育」の第1号となる雑誌、「学校劇」が国土社より創刊された。冨田博之(後に長く日本演劇教育連盟委員長を務める)が編集の中心だったこの雑誌は、〈芸術教育と児童文化〉と副題をもち、当時の第一線の演劇人、心理学者、教育学者が幅広く寄稿して、創刊当初から、演劇(を主とした芸術)と教育の関係を幅広く探っている。 「子どもたちの劇をどう指導するか」 「演劇という芸術の特質は何なのか」 「子どもたちの声・言葉・身体の表現力・コミュニケーション能力をどう育てるか」 「演劇(や芸術)の方法や感覚を、どう授業に生かすか」 「演劇をはじめとする子どもの文化のある学校・学級をどうつくるか」 こうした、現在にも通じる演劇教育の課題は、ほとんど初期の頃から提示されている。「学校劇」という名ではイメージが狭すぎる、という声は次第に高まり、1960年、雑誌のタイトルは「演劇と教育」に、団体名も現在の日本演劇教育連盟にかわった。 ▼スタニスラフスキーと演劇教育 戦後の新劇界では「スタニスラフスキーシステム」が主流にあった。モスクワ芸術座のスタニスラフスキーが、自らの演技を分析し体系化したこの「システム」は、すでに戦前から日本に紹介されてはいたが、本格的に紹介されたのは戦後になってからだ。そして演劇が社会をどうリアルに描き出せるかという問題意識と重なって、「システム」の研究・実践は新劇界の関心の中心になっていた。 「学芸会的」といえば、現在でもパターン化した大仰な演技の代名詞として使われる。そのことは、すでに1950年代には指摘されており、創造的な劇指導の方法が求められていた。その問題意識は、演劇教育をスタニスラフスキーシステムに接近させる。日本学校育連盟の55年の全劇研では、「スタニスラフスキーシステムをどう学ぶか」と題したシンポジウムが開かれ、翌56年には、スタニスラフスキーシステムを学ぶための合宿研究会が開かれている。岡倉士朗、八田元夫、下村正夫といった新劇の演出家たち、そして当時若手だった竹内敏晴、高山図南雄、道井直次らが共同研究者として積極的に演劇教育に関わった。 この研究会について、晩成書房・水野氏はこう語る。 「演劇教育のベテランの人たちに聞くと、この時期の合宿研究会の印象をとても強く持っているんですね。これは、現在でいう“ワークショップ”の先駆けだったんだと思います。演劇の専門家にスタニスラフスキーシステムを学び、また、講師の演劇人側も教育の専門家である教師から、多くのものを得ようという、互いに教え教えられる、という学びの形を体験した。しかも実際の体験を通して学んだ。「システム」の内容ももちろんですが、ぼくは、こうした学びのスタイルを共有したことの意味が大きいと思っています。その後、子どもと教師の関係、創造的な教育の場としての教室や学校をどうイメージするかということに影響を与えたと思うんですよ」 ▼厳しい60年代へ 戦後、新たなスタートを切った演劇教育は、着実に拡がっていくように見えた。日本学校劇連盟の55〜56年の大会は、全劇研には700人もの人々が参加するようになった。だが、戦後社会が落ち着いてくるとともに、58年に起こった、教師の勤務評定問題に代表されるように、文部省の教育に対する締め付けは、徐々に厳しさを増していく。民間の教育研究の多くが厳しい状況を迎える。50年代末からは全劇研の参加者も激減。大会自体が中止に追い込まれるなど、運動の広がりの面では「低迷」の時期へと突入することになった……。 戦後の混乱の中、次世代を担う子どもたちに向けて活動していた先人たちの姿や、当時議論されていた教育の問題などは、何故か現代と重なって見える。「50年経った今も、状況は変わっていない」と言ってしまえばそれまでであるが、だからこそ、先人たちの活躍や挫折から得るものは多い。 その後、「産みの苦しみの時代」に、先人たちはどのような歴史を刻んでいったのだろうか? 次回は、演劇、教育ともに厳しい時期を迎えながらも、粘り強い活動によって、現代へ続くさまざまな形を生み出した1960年代の演劇教育界を追いかける。 ♪さらに詳しく知りたい人のための参考書籍 ◎明治・大正期の日本の演劇教育を知りたい人は…… 冨田博之 著 『日本演劇教育史』 1998年 国土社 落合聰三郎著作集1『聞き語り 少年演劇の歩み』 2000年 (社)日本児童演劇協会/晩成書房 ◎日本演劇教育連盟の運動の歴史を知りたい人は…… 日本演劇教育連盟編 『からだとことばその豊かさをもとめて―日本演劇教育連盟50年のあゆみ』 1989年 日本演劇教育連盟 |
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(文・企画・取材協力 晩成書房代表 水野久氏/ 文・O)2002.07.1
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