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永久保存版シアターエデュケーション
             〜演劇教育ヒストリーvol.2〜


「永久保存版シアターエデュケーション」と題して演劇教育の歴史を紐解いていくこのシリーズ。第2回目の今日は、1950年代の流れをベースに試行錯誤を繰り返した「産みの苦しみの時代」である60年代以降を振り返ってみよう。

60年代に入り、世の中が安定してくると、勤務評定問題など教育全般への管理的なしめつけが厳しくなってくる。そのため、60年代は、演劇教育にかかわらず、民間の教育関係全てが苦しい状態になった。そんな中、演劇教育はどんな活動をしていたのだろうか。

50年代から盛んに行われたスタニスラフスキーシステムを通じての演劇教育研究会の中から、60年代には、その後の演劇教育に大きく影響を及ぼす2つの流れが生まれてきた。そのひとつは冨田博之さんの「エチュード方式」であり、もうひとつは竹内敏晴さんの「ことばとからだ」についての問題提起である。


▼エチュード方式

60年代を語る上で注目しておきたいのが、冨田博之さんが発表した「エチュード方式」である。冨田さんは、日本演劇教育連盟再建の時から事務局長を務め、80年代までずっと日本演劇教育連盟を引っ張った演劇教育研究者だ。

冨田さんは、学校の中から演劇がどんどんと削られ、演劇教育が広く普及できないのは、演劇が教科として成立するための科学的裏づけがないからだと考えた。同じ芸術教育でも、音楽教育では「歌う・演奏する」ということについて系統的な指導体系が示され、独立した教科となっている。美術教育の「描く」ことについても同じである。

演劇教育でも、誰でも「演じる」ことを系統的に指導できる方法を示すべきだ、というわけだ。スタニスラフスキーシステムを学んだことが、その確信を大きくしたものと思われる。そして、子どもたちが「演じる」ことを段階的に、体系的に学ぶ方法として、「エチュード方式」を提唱した。

「エチュード方式」は、即興的なエチュードを重ねて、子どもたちに「演じる」ことを体験させていくシステムだ。日常のエチュード(基礎のエチュード)とけいこ過程のエチュード(応用のエチュード)の2つのカテゴリーに分け、年齢や心の成長に合わせて段階的に進められるようになっている。

冨田さん自身は研究者であり、子どもを直接指導する現場にはいなかったので、実践を呼びかけながら、60年代をつうじてレポートを発表し続け、1974年、『現代演劇教育論』として1冊の本にまとめている。

しかしこの「エチュード方式」は、日本演劇教育連盟の一部の教師が熱心に試みた以外には、大きな広がりにはならなかった。基礎から積み上げていくように構成されてはいるが、子どもの興味・関心をひきつけるようなものになっていると、現場の教師たちには思えなかったのではないだろうか。今ふうに言えば、「遊び心」のようなものに欠けていて、あまりにも「子どもを俳優として育てるシステム」に見えてしまったのではないだろうか。

ただし、それまでの子どもの劇活動が、はじめに脚本があって、台詞を覚え、つくりあげていくのを主体にしていたのに対し、即興的な活動が、子どものいきいきとした劇的表現を生むことを提起したことは、後に大きく影響を与えたといえるだろう。


▼教師自身のことばとからだ

60代でやはり注目したいのが、竹内敏晴さんの「ことばとからだ」に関する提起である。竹内さんは50年代から活発に行われていたスタニスラフスキーシステムを学ぶ合宿研究会などに、若手の演出家として積極的に参加し、演劇教育について積極的に発言・提言を重ねていく。竹内さんは教師自身が創造的でなければ、子どもを創造的に育てることはできないという視点から、次第に劇指導の方法よりも、教師自身が自らのことばやからだに気づき直す、その上で人間どうしの関係を創造的に築きなおすというかたちの研究会に力を入れていく。

竹内さんは、その後も学校の教師に限らず、一般のひと、教育系大学生を対象に、そうしたワークショップを重ね、演劇との出会いが人々に何をもたらすのかを探り続け、今日も、多くの影響を与え続けている。


▼反スタニスラフスキー的演劇

60年の安保闘争。64年の東京オリンピック。新幹線や首都高速が開業し、時代は高度経済成長を迎えていた。高校進学率が70%を超え、68年の東大・日大闘争に代表されるように、多くの若者たちが古い体制に、熱く異議申し立てをした60年代。

一般演劇界でも、それまで脈々と続いてきた新劇に対して、今までの固定概念を打ち破るような、不条理劇やアングラと呼ばれる演劇が勢いを得てきていた。そうした演劇の流れの中では、ともすると「スタニスラフスキー」は、古い新劇を支える古い方法論として無視、あるいは否定されがちだった。

一方、60年代後半、児童青少年演劇界では、関矢幸雄さんの演出が注目され始めていた。もちに「素劇」として定着する、情景を示すような具体的な装置や衣裳を使わない、遊びの感覚、「見立て」の感覚に溢れた舞台づくりの方法である。

劇団風の子の「アニメイム」「トランク劇場」など、今までの児童青少年演劇の概念を吹き飛ばす新しい演劇を次々と作り出していった。その後70年代以降の児童青少年演劇に与えたカルチャー・ショックは、計り知れないものがある。鑑賞教室として学校で上演される機会も多かった関矢さんの演出法は、学芸会や子どもが作る演劇にも大きく影響を与えたといってよい。


▼劇あそび

60年代後半になって、先にあげた「エチュード方式」が示した即興的な子どもの劇活動の大切さを、別の方法で示したのが「劇あそび」だ。お話をもとに、子どもたちに(即興で)劇的にあそばせる「劇あそび」は、主に幼稚園などで広まったものだが、小学生の劇への導入の活動としても注目されるようになった。お話を劇あそびで遊んで、上演できる劇に仕上げていったり、脚本の一部を劇あそびとして膨らませたり、ということで、子どもたちのいきいきとした表現が生まれることが注目された。

劇あそびは、「舞台上演の導入活動」という感覚から徐々に離れ、70年代後半以降は上演とは切り離して、子どもたちが自由に虚構の世界を遊ぶこと自体の大切さが強調されるようになっていく。


▼遊びと祭り

70年代に入ると、60年代に参加人数が落ちこんだ日本演劇教育連盟の全国演劇教育研究集会(以後、全劇研)も息を吹き返した。戦後生まれの団塊の世代が教師として現場で活躍を始め、演劇教育の運動に参加し始めたのだ。

彼らは「新劇以後」のアングラ演劇などを、大学時代に体験してきた世代だ。大学時代に「学園闘争・70年安保」を体験してきた世代でもあるだけに、教育研究運動への参加も積極的だった。彼らは、自分たちの演劇体験から、新しいタイプの学校演劇を創りだしていった。同時に、教育のあり方全体について、演劇の側から「今までの学校、今までの教育に欠けているものは何なのか」を考えようとした。そこで出てきたのが「祭り」と「遊び」という2つのキーワードだ。

子どもたちとの劇づくりと同時に、学芸会・文化祭、行事や集会、授業のあり方まで「祭り」や「遊び」をキーワードに考えようとした。


▼バブリーな80年代へ

1977年には小中学校学習指導要領がゆとりの時間をふくんだ新しいものになり、教科以外の活動ができる時間がうまれた。新しい世代の教師たちが数多く、演劇教育運動に参加し始めた。78年には、雑誌「演劇と教育」が今までの日本演劇教育連盟自主発行から晩成書房で定期的に発行されるようになった。こうした「追い風」を受けながら、演劇教育は80年代を迎える。

80年代には、全劇研の参加者も1000人を超える規模となり、演劇教育・表現教育のジャンルやニーズが多様化していく。

次回は、演劇教育の「バブル期」である80年代以降を見ていきたいと思う。


♪さらに詳しく知りたい人のための参考書籍

◎「エチュード方式」に興味のある人は……
冨田博之 著 『演劇教育』  国土社

◎竹内敏晴さんの活動に興味のある方は……
竹内敏晴著『ことばが劈(ひら)かれるとき』1975年 思想の科学社(1988年 ちくま文庫)
竹内敏晴著『からだ・演劇・教育』1989年 岩波新書
竹内敏晴著『「からだ」と「ことば」のレッスン』1990年 講談社現代新書 ほか

◎劇あそびを知りたい人は……
小池タミ子著『劇あそびの基本』 1990年 晩成書房
小池タミ子・平井まどか編『劇あそびを遊ぶ』 1991年 晩成書房

 

(文・企画・取材協力 晩成書房代表 水野久氏/ 文・O)2002.8.5